日高理恵子

写真:浜田啓子

幹と重力

保坂和志

手にした画集をパラパラめくっていくと、まず889ページの葉のない枝だけの絵に惹きつけられた。見ているうちに首のうしろが、高い木を実際に見上げているみたいに痛くなってきた。私は20年以上前から頚椎(首)の椎間板ヘルニアがあり、アタマを反らせて真上を見上げてはいけないと医者から言われているその首の痛みが起こっていた。

68ページの、葉が茂った枝群の絵では同じ見上げる視界でもそうはならない。葉のない裸の冬枯れの木でだけそうなってくる。葉が茂っていると明るい光があり、さわやかな新緑の空気のなかにいるようで、私は全身が緩み、呼吸もゆったりしているが、葉がないと冬の曇天の空のした、冷たい風に木と自分がさられているのを感じる。木が木として剥き出しの幹と枝群を、私の体は画家と同じ体勢で見ることを強いられる。

私は画集を膝にのせて開いて見ていた。壁に展示されているのと同じように垂直に立てて見ると、ますます私の体は首を起点に緊張した。机に平らに置いてみても緊張は解けないが、不思議なことに本を高くかざして顔の真上で広げると、その体勢が体は一番緊張していない。しかし絵が天井に展示されることはないみたいだ。それにしても展示写真に写っている絵の大きさがすごい!

もっと時間をかけて見ていると、枝の広がりよりも、太い幹の下から上へと向かうのと同じ運動? 流れ? 緊張? を体の中の何かがずうっと絶え間なくつづけている。幹が画面(画布)の端からはじまり先端まで描かれている絵だけでなく、幹の両端が画面で切れている絵でも幹の伸びる方向がすぐにわかるのは太さの変化だけだろうか。その幹は下から上に伸びているというそのことを瞬時に理解していることが不思議といえば不思議だ。

幹が垂直でなく斜めに上に伸びることを、これまで一度も疑問に感じたことがなかった。木はどうして、斜めなんて無理な体勢で上に向かうのか? 垂直に上に伸びる方がずっとラクだろうに。セザンヌが、のしかかる空の重さに抗って山が大地から立ち上がる姿勢を維持していると感じたのと同じ、幹の重力への抗い、空の圧力との闘いを、私はいま自分の体をもって、自分の体のなかで、再演していると感じる。

日高理恵子 樹の経験

『日高理恵子作品集 1979–2017』(NOHARA)の刊行にあわせ、「日高理恵子 樹の経験」を開催。
35年にわたり樹と空とを描き、自らの身体に「見ること」を問い続けてきた、
日高理恵子さんの初期から最新作までを収録した作品集と、
原点とも言える作品、《樹》(1983年)一点と、そのドローイングを展示した。

会期:2017. 11/26、12/2、3、9、10、16、17(計7日間)

 

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Photographs: Kieko Hamada

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