Yuri Suyama

1-43-12
Tomigaya, Shibuya-ku
Tokyo 151-0063, Japan
info@suyama-d.com


拘束されているが故に、そこから移動出来ずに有限の自由を感じる。私にとって、電車に乗っている時間はそういうもので、すべきことがない嬉しさを噛み締めつつ、大体を周辺にいる女性を見るでもなく(外の景色をそうするように)眺めるが、時折は学びの姿勢を見せ、読書に費やすこともある。が、これが危険なのだ。一度読書を始めると、今まで視界に入ってこなかったものことたちが、光線となり私の可読範囲内に侵入してくる。隣に座るギャルの持つスマートフォンから漏れる映像、前に立つ中年男性の靴、コートの裾、カサカサ音を立てる新聞、対向の椅子に座る謎の女の視線----。
 私たちは普段(歩いている時、物思いに耽っている時)、何を見ているのだろうか。いや、そもそも何かを「見ている」のだろうか。当然、何も見ずに歩くことは出来ないはずで、前を歩く人、階段の段差が眼に入ってくるので、ぶつからず、転ばず、対して考えもせず目的地へ向かう(ことができる)。眼は勝手に光景のスキャニングを行い、「考えること」(只今人が迫ってきています、避けます。段差を見つけました、右足の後に左足を下ろします。といった具合)を経由せずに、私たちの身体は動くことが出来る(向かう道筋を知っている場合、「記憶」という「視線」も手助けをしてくれる)。
 つまり、眼がスキャンした光景と認識は直結していない。「見ている」と「見た」(と思う)の間は遠い。眼は常に何も見ていないか、一つのものを(意識的に)見る。あるいはずっと見ているが、(認識的には)見ていないことにしている。
 私は本を開き、紙を、文字を眼で追う。これを「見ている」とする。しかし、途端に眼は様々なものを認識し始める。今まで眼に入りながら「見た」ことにはしていなかったものことが蠢き始め、それが私の自由を奪う。つまり、他の光景に侵入されると私の「眼」は本を読むことができなくなる(見ることができなくなる)。
 では、「見ようするもの」「見えてくるもの」、その二つのものを同時に「見る」ことができるとして、その時人は何を思うか。「私(だけ)が見た」だ。


 大原大次郎の「もじゅうりょくのモビール」シリーズの「文字」を見た時に私が感じたのは、この「私(だけ)が見た」感覚だった。「もじゅうりょく」とは、「文字」と「重力」を掛け合わせた造語で、「文字」のエレメントを解体し、物質として作られたそれらが、空間に再構成される。平面ではなく、宙に浮かべられた「文字の欠片」は、実にゆっくりと回り、簡単には「文字」にはならない。「私」(鑑賞者)は、しばらくその前に佇み、ある時それらが、「文字」に見える「時」に遭遇する。そうすると、不思議なことに、それまでただのバラバラだった「モビール」は、そのあとどれだけ動き、形体が実際の字体から遠く離れていっても、もう「文字」にしか見えなくなる。(実際には、いくつかの「文字」が組み合わされ、単語が構成されている。例えば、「あるいは」「食卓」など。この「単語」ということも、認識には大事な要素だと思われる。「語」と「語」を繋ぐ脳の回路、つまりここでも「記憶」が関わっている。)
 おそらく、「もじゅうりょく」を「文字」として認識するまで(の時間)には、立つ場所、動くモビールを追う眼の方向といった環境の差異だけでなく、個体差がある。元々個々人の中(頭、脳、それが何かは分からないが)に内在している「文字」(予感)があり、そこに「もじゅうりょくのモビール」によって生まれた時間がアクションを起こすことによって、改めて「文字」に気付か(発見)される。その構造が「私だけが見た」感覚に関係しているはずである。


 以前読んだ免疫学の本にこんなことが書いてあった。「まず『自己』に対しては反応しないように認識の構造を設定し、それをそのまま利用して、『自己』が『非自己』化したことを認識させる」(多田富雄『免疫の意味論』青土社刊)。つまり、「A=×B」だと判断させるのではなく、「A=B」を判断させないようにすることで、「A×=B」になった瞬間が発生する。「もじゅうりょく」に内在する「文字」とそれに呼応する気付きは、この免疫論と同じ構造(というより全く逆)が張り巡らされている。既に知っている「文字」(A)を、「B」として、改めて知る。そのために一度「B」が「A=×B」となる状況を作り出し、もう一度「A=B」との(かつてあった)出会いをもう一度新鮮な「発見」として提出する。それが「もじゅうりょく」の再構成の仕組みではないだろうか。


 しかし、どうして私たちは、「まだ文字ではない」「もじゅうりょくのモビール」の前で、「それ」が「文字」になる間での時間を過ごすことができるのだろうか。それは、私たちが「それ」がいつか「文字」になることを「予め知っている」からだ。私たちは「もじゅうりょくのモビール」の前で「それ」が「何であるか自分に説明する自由」を持てない(ようになっている)。しかし、「それ」が「時間」を経て、「文字」になることを「知っている」が故に、その時間に耐えられる。
 先ほどから、何度か「記憶」という曖昧な言葉で表してきたが、「いまここ(現在)」は、私たちが「今見ているもの(こと)」とは、別に「かつて見たことがあるもの(こと)」によって担保されている。「それ」が未だ「何を表しているかは分からない」が、「その存在自体」を「かつて知っている」が故に、私は今ここにいることに耐えられる。「これはまだ文字ではない」が「これが(かつて)文字である(であった)こと」は分かる。それこそが、大原大次郎が「もじゅうりょくのモビール」に二重に巡らせた「新しい文字の読み方」だ。いや、そこに読み取ろうとする(発見への)意志があり、それより先んじて意志を発動させる(予感への)萌芽がある限り、それは「文字」ではなく、意味を持つ「言葉」なのだ。


 私たちは、「理由を知っていて」ここにいるわけではない。(そのような自由は与えられない)。それでも、ここに居続けなければならない。そうして生きている。
 きっかけも理由もない不安の中で、「いまここ(現在)」に居続け、「かつての光景(過去)」と「これからの光景(未来)」の間で耳を澄ます。
 その時に聞こえた声こそが、大原大次郎が発した「見たことのある文字」を使った、「聞いたことのない言葉」だ。


(2013.07.01)


 私はデザイナーで、ARICAではチラシなどの宣伝美術を担当しており、普段は、本や雑誌や、美術館の広報物だとか、ファッションブランドのグラフィックなどをデザインし、生計を立てている。
 例えば、本(一人の著者)と読者(不特定多数)の間で「私」は仕事をする。


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 今年急逝したテオ・アンゲロプロスの追悼上映が各地で行われている。
 今まであまり熱心に観たことはなかったが、5、6月は暇だったので、新文芸坐、早稲田松竹、東京芸術センターで観た。
 

 AとBの会話を撮る際に、Aの目線でBを、Bの目線でAを、C(「そこ」にはいない第三者=撮影者)の目線でAとBを、通常であれば、そうした三つのショットで行われるところを、Cの視点だけで二人を捉えてみる。そして、そのままカメラは360度パンする。そうすると、そこには誰も(「そこ」にはいない第三者=撮影者は当然)いなかったことが分かる。具体的にこんな場面があったかどうかは知らないが、『旅芸人の記録』の一場面でひどく長いワン・ショットがあって、そこでは何度もカメラが廻り、移動し、その都度登場人物たちも忙しなく動き、「こちら」(カメラ側=私たちの方)に向き直す(このワン・ショット=ワン・シークェンスのカメラと人の動きについては、『アンゲロプロス 沈黙のパルチザン』(ヴァルター・ルグレ/奥村賢訳/フィルムアート社、に詳しい)。
 私たち(鑑賞者)は登場人物(AやB)の目線を与えられず、撮影者は「そこ」では不在の(いるけれど、いない)目線となる。同時に登場人物にも「こちら」を「観る」機会は与えられず、「そこ」にいない視線に観られ続けている。
 
 また、Dが道路に面した薬局の中に入る、カメラはその背中を追う。ショットが切り替わり、カメラは店の中から外の通りを写す。鑑賞者は店の中にいるDの視線に同化し、通りを眺める。すると、カメラにはその通りに店から出て来たDが映り込んでくる(これは、実際に『永遠と一日』にあったショット)。私(鑑賞者)は違和感を感じることなく、いつのまにか「そこ」から投げ出されている。
 

 アンゲロプロスはカメラの視線に「主体」を与えない。
 故に「私」は「そこ」にいることができない。
 

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 久住昌之原作の『孤独のグルメ』(画:谷口ジロー/扶桑社)と『花のズボラ飯』(画:水沢悦子/秋田書店)は、登場人物が一人だ。
 性格や風景を成り立たせるために、画面内に人がいたり、会話が成立している場合もあるが、物語にはあまり関係がない。そもそもこの二つの漫画に特別に際立ったストーリーはない。ただ食事をし、「美味い」と思ったり、実際にそう口に出したりするだけだ。
 

『孤独のグルメ』は、アンティークの家具や雑貨を輸入する会社を切り盛りしている中年男性井之頭五郎が、卸先などの出先で食事を摂る、一話完結型の漫画。彼は(聞き直されたりしないように)大きな声で注文する。注文を二回言うのはストレスだから。また、食事の際はいつも一人のため、「美味い」と口に出すことを許されていない(別に「美味い」と言ってもいいが、周りの客に怪訝な顔をされたり、店のおばちゃんに喜ばれたりするのでこれもまた面倒くさい)。
 もちろん漫画なので、吹き出しで「うまい」と書かれる(図1参照)。これは頭の中で思った「うまい」で、口に出して「うまい」と言ったわけではない(と思う。今年ドラマ化された際には、「うまい」はオフの声で対応されていた)。しかし、彼の顔は声に出さずとも、傍から見て美味いのが分かるほど、美味そうな顔をする。誰も観ていないのに。私たちは、井之頭五郎に共感する。
 

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図1


『花のズボラ飯』では、夫が単身赴任のため一人暮らしをしている30歳の女性駒沢花が登場人物だ。元々の性格か夫が不在なことによる気の緩みか、彼女は片付けができない、ソファーで寝転がる、「ズボラ飯」を作る。そして、それはそれは美味そうに食べる。そして、実際に「うっまぁ〜〜い!」と声に出す(図2参照)。彼女は自宅で食事をしているから、独り言つことを許されている。誰も聞いていないのに。私たちは、駒沢花の独り言を聞く。


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図2


 例えば、道で転び、痛そうな顔をして、咄嗟に「うわ!」なり「痛っ!」といった声を上げる。偶然居合わせた人に「今、道で転んだんです。とても痛かったです」と言わなくても、その「痛い」感覚や気まずさは充分伝わっている。
 彼等が、「美味い」という表情をしたり、「うっまぁ〜〜い!」と思わず独り言つことで、彼等にとって、私たちは、そこにいない「人」になる(彼等は「独り」だからが故にそうする。そうするために「独り」にさせられている)。そして、私たちは「そこ」にいない故に、共感をし、会話の相手となる。
 

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 私が興味があるのは、映画や漫画における「そこ」だとか、彼等(登場人物)の持つ視線の方向性ではなくて、彼等(登場人物)のいる「そこ」と、「私」(撮影者や漫画家や鑑賞者)のいる「ここ」の間に存在する運動のことで、それは例えばキャッチボールが行われている様を、そのキャッチボールを行っている二人を見ないで、その軌道だけを見ている状態とその距離感のことだ。「そこ」にだれもいないこと(不在がいること)によって生まれる視線と、不特定多数に対するコミュニケーションが成り立つことは同じではないか。
 

「...なぜ私といるの?」
「俺には理由なんてない。あるのはただ、この名前と、ゴミ集めの制服、虫歯に病気の肝臓、慢性胃炎...いちいち理由をつけるぜいたくなんて、俺にはない」
(『パラダイスの夕暮れ』より)


(Theater Cpmpany ARICA「HP Column」より)


音楽家の蓮沼執太さんがアサヒ・アートスクエアを拠点に、一年間(2012年2月〜2013年2月)毎月公開でスタディ(レコーディングや撮影)をして、そこから派生する展覧会を行うプロジェクト「蓮沼執太のスタディーズ」。私はそのロゴタイプと、毎月行われる公開スタディのチラシを担当します。

 蓮沼執太という音楽家は、個々のプロジェクトの中で、自分に媒介にして、実験を楽しむかのように、多様な環境と人脈の中で、多様なアウトプットを行ってきた(と思う)。今回のプロジェクトも、レコードのための公開録音でもないし、ただのライブでもない。よく分からない。だから、スタディーを通して最終的に行われる展覧会には、できるだけ様々な(普段蓮沼さんのライブを見たことがない人も、アサヒアートスクエアに行ったことがない人も)お客さんを呼びたいと(そうなることが今回の「告知」の成功だと)思った。しかし予算はない(大体いつもない)。ただ「時間」はある(なら映画を観たい)。一年間通してプロジェクトを進めるのだし、その「時間」を使って広報することができないものだろうか。
 そもそも、私はここ最近チラシなどを大量に刷って、不特定多数に撒いたりする(公演折り込みをしたり、美術館や公共施設に設置したりする)ことに、どれほど効果があるのか懐疑的だった(時々たくさん余ったりするし)。もちろん、偶然チラシを手に取って展覧会やイベントに赴く方もいらっしゃるでしょう。だとしたら、そのチラシを「偶然」手にとる「行為」そのものを作れないだろうか。

 今回のプロジェクトは、予め一年間のスケジュールが決まっていたので、翌月の公開スタディの日時と蓮沼さんの短いテキストを記載したチラシを100枚ほど束ね、日めくりカレンダーのようにして(全て同じ日付の日めくりカレンダー)、それを毎月都内数カ所に設置することにした。チラシを「撒く」のではなく、チラシを「取りに来て(捲って)もらう」。
 場所と枚数を限っているので、即効性(チラシを製作した翌月の公開スタディに女の子が大挙して押し寄せたりとか楽しそうなこと)はないかもしれないが、わざわざ取りにいったり、自分で捲るという「行為」が介在することは、記憶の手助けになるだろうし(私なんかは展覧会の日時を忘れてよく見逃す)、持続性があると思う。何より、あとは一年間という「時間」がプロジェクトを導いてくれるだろう。

 ごく小さな音量でラジオが鳴っている。よくは聴こえないが、心惹かれる音だ。音の方へ歩くと、少しずつ音がクリアになっていく。私たちはそこまで歩いていくだろう。そこには、あなた(だけ)を待っているニュースがある。「良いニュースは小さいな声で語られる」(村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』)のだ。
 声を届けるのに、その音量を大きくすることはない。友人に手紙を書く時に紙やペンを選ぶように、その響き方、そしてどこで声を発するかに腐心すること。でなければ、空(くう)に浮かんだ音は「誰かの」メッセージにはならないと私は思う。そこに宛名がなくとも「これはあなたに宛てたメッセージだ」というメタメッセージが感じられたとき(そう複数の人が感じるわけだが)、それは初めてメッセージ足り得る。

 今後の日めくりチラシには、蓮沼さんだけでなく、様々な方のエッセイやイラストなども掲載予定で、そこにしかないフリーペーパーを取りにいくような感覚で、楽しんでもらえるようなコンテンツが待っております。どうぞお見知り置きください。


設置場所は、以下の都内五ヶ所です。

NADiff apart
UTRECHT NOW IDeA
VACANT
happa(青山|目黒)
アサヒ・アートスクエア


(「蓮沼執太のスタディーズ」の「告知」のためのステイトメント)


物語を書いたり、絵を描いたり、写真を撮ったりしない私も、少しは読んだり、見たりするのだが、それはいつも遅れた行為となる。最初の読者・鑑賞者(他者)は、語り手であり、画家であり、写真家であるのだから。
しかし、遅れてきた私も、時折それが書かれた(描かれた)場所で、彼らがそう書いたように(描いたように)、読み、見ることができる(私が読むように、見るように、彼らは書き、描いている)。たったいま紙に書き付けられた文字を書き手が読んだとき、画家や写真家が現前した光景と再び対峙したとき、おそらく彼らがそうだったように。
そうして読者や鑑賞者が神話的時間に沈み込み、「最初の読者、鑑賞者」の眼を獲得するためにデザインが唯一出来ることは(あるいは、失敗するかもしれないが)、その可能性を消さないことである。
文字が小さい。紙がガサガサする。この本は重い。頁を捲ったら、意外に軽やかだ。そうして、始原の遅れを抱えた私は、さっさと読み終わり、じっくり読み干し、一枚の前で佇み、立ち去り、何冊かの本、何枚かの絵、写真の「最初の読者、鑑賞者」になった。

「私にはすべてが別物に、全く新しく見えた。そこでもっと先まで見たいという好奇心に駆られた。それは、こういってよければ、どんなものに対しても起こる一種の間断のない驚きだった。もちろん、私は絵に描いてみたくて仕方がなかったが、これは私の手には負えなかった、...これまでのところ、私はどんな方法を使っても失敗してきた」(ジャコメッティ『私の現実』みすず書房、1976年)

(『typographics ti:』#266「TYPE RELAY」寄稿)


フランツ・カフカ『世界文学全集29 城 変身』河出書房新社/1962年
小島信夫『アメリカン・スクール』新潮社文庫/1967年
村上龍『限りなく透明に近いブルー』講談社文庫/1978年
レイモンド・カーヴァー『必要になったら電話をかけて』中央公論新社/2004年
多和田葉子『犬婿入り』講談社/1993年
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』新潮社/1994年
ロラン・バルト『零度のエクリチュール』みすず書房/1871年
ヴォルター・ベンヤミン『ベンヤミン著作集6』晶文社/1975年
三浦雅士『考える身体』NTT出版/1999年
柴田元幸+高橋源一郎『小説の読み方、書き方、訳し方』河出書房新社/2009年


「奇妙な文体に惹かれる。不安を与えられながら、同時に笑いが込み上げてきたり、酷く暴力的でエキセントリックな描写なのに、通低音のように静かな空気が流れていたり、淡々と語られる背後で驚異的なスピードで時間が進んでいたりする。文字を追っている最中、ずっと耳元で囁かれているような感覚を持つこともあれば、読後にどこか別の場所へ移動してしまっていることもある。"日本語"を読みながら"日本人"から遠く離れたりもする。
これらは、文体の持つ"属性"みたいなものによる作用だと思うのだが、よく分からない。きっと作者だって、そんなこと分からないだろう。ただ、そこには、高橋源一郎が「『固体』としての小説と『気体』としての小説と『液体』としての小説、それらを繋ぎ合わせている『ひとつのより大きい』何か」と呼ぶものがある。"タイポグラフィ"は、その変容する"何か"が他者の身体を通過し、もう一度変容した結果ではないだろうか。」


(『idea #343』、「タイポグラフィをめぐる書物」寄稿)


雨がザッと降って、風が吹いて、夏を連れ去った夜に、
ビールを飲みながら、窓を開け放って聴いた。
どんな音が鳴っていたのか、今はもう覚えていない。
ただ、短い音の断片が、"元の場所"に戻れず、"ここ"に取り残されている。
それだけで、"ここ"は"さっき"と随分と違う世界になったようだ。
また明日、あるいは窓を閉め切った冬の寒い日にも聴いてみよう。
その時にも、何も記憶を作らず、また別の断片を残していくだろうか。
おそらく、そうやって、"物語"は長い時間を読み継がれてきたのだ。


(CD『apart my surround』に寄せて)


優れた音は、予めそこにあったような音として、流れ出す。Penguin Cafe Orchestraの音楽は、いつでも違和感なく、台所の食器の音、カーテンの揺れる音、外から聴こえる犬の鳴き声のように響く。しかも、日常のちょっとした事件のような、お皿の割れる音、怒ったような強風や子供の泣き声といったユーモアも含まれているから、退屈しない。仕事に疲れたら、ペンギンの給仕がいるカフェでコーヒーを飲むのだ。


(『Rookies Life』「仕事場で聴く音楽」に寄せて)


テキストやイメージなどのマテリアルが、「印刷」や「本」というパッケージを通して、「形態」と「形体」を与えられる時、そこには固体が液体になるような、物理的変容があると思う。喫茶店には、「絞り立てオレンジジュース」というメニューがあり、コンビニエンスストアでは、オレンジ風味の「オレンジジュース」という飲み物を売っている。どれも、何かしらの「都合」で生まれたのだろうけど、一度そんな「都合」を気にせず、木からオレンジをもぎ、絞り、コップに注ぐまで、全部をやってみたいと思った。今回、そうやって作ったオレンジジュースを、「Zine's Mate Tokyo」という机の上に置くことにしました。


(アートブックフェア「Zine's Mate Tokyo」に寄せて)


一般的なイメージとはなにか。多和田葉子の短編小説「海に落とした名前」に出てくる記憶喪失者は、犬を思い浮かべてご覧なさい、と言われて頭の中に図鑑の犬を思い浮かべる。いろんな犬がそこには住んでいたが、「自分の犬」はいなかった。
ダンサーは、身体のイメージの中に「自分の身体」がいるのだろうか。だとしたら、今目の前で動き出そうとしている身体が、他者に向けて圧倒的な説得力を持つのは何故だろうか。次の一歩がどうなるのか検討もつかないが、その一歩が踏み出された時には、その身体がそこにあることを知っていたかのように思う。そんな動き、身体が見たいと思う。
さて、記憶喪失のダンサーは、どう踊るだろうか。


POSTALCOのデザインに何故惹かれるのかを説明するのは難しい。使っているのだから、身体はその使い心地のことはよく知ってはいるのだが、自分ではない誰かにそのことを勧めようとしても、うまく言葉にできない。POSTALCOの鞄やステーショナリーを使ったときに、私は「そう、こういうものが欲しかった」、と思った。その前には、こういうものがほしい欲しい、とは思っていなかった、にもかかわらず。


昨年、世田谷ものづくり学校で展示会が行なわれた新作の鞄は、橋の力学を基に考えられた「ブリッジバッグ」。橋の構造は、重さの圧力を柱が分散するように出来ていて、その強度とバランスを応用し、作られた鞄らしい。しかし、始めから橋と鞄の関係性に着目していたわけではなく、元々橋が好きで、橋の資料を集めているうちに、鞄に応用できないか、と考えるようになったと、伺った。
POSTALCOの展示や鞄を見て、いつも感動するのは、関係のないと思われるものを結びつけるそのダイナミックな思考と、それらがサンプリングされていく際の心地よさにある。(しかし、その軽やかなジャンプは、「身体」や「モノを運ぶこと」からは離れていかない。着地点はいつも、私たちが、鞄を持って歩く道であり、ノートを広げてメモを取る旅先であり、手紙を書く机の上なのだ。)


そのような、機能性や外見の美しさだけではない、目に見えない"響き"や"揺らぎ"のようなものに、手にした人が誰しもそれを自分のためだと思ってしまう、効用がある気がする。そこには"物語"がある。POSTLACOの"物語"ではなくて、POSTALCOを使うことで、初めて気付く"私の身体の物語"だ。
それは、天気が良くて、いつもより少し長く散歩した時かもしれないし、急いでいるのに、ドアの閉まる電車に間に合わなかった時かもしれない。もしくは、隣に人がいる時、鞄の持ち手を変えた時かもしれない。
結局、私たちはお気に入りの鞄を手に入れた所で、それを片手に携えて、日々の生活に勤しむことになるのだろうが、POSTALCOの鞄たちは、耳に差し込んだイヤホンのように、些細な幸福を連れてきてくれるかもしれない。
鞄の中に、"物語"が入り込む隙間が少しだけある。それが、POSTLACOの"デザイン"ではないだろうか。


(「Thinking with My Feet--POSTALCOの気になること」展に寄せて)