2011年 Archive







ここ最近の動向を備忘のために。



minä perhonen HP リニューアル
ファッションブランド、minä perhonenのHPが、8/1にリニューアルしました。
全体のディレクションはウェブディレクターの斎藤寿大さん。minä perhonenのスタッフ達と斎藤事務所の鋭敏なプログラマーの方々と一緒に制作しました。新しいコンテンツ「metsä」という名のWEB上のショップに並ぶ写真は、カメラマンの杉田知洋江さん、片村文人さんによるもの。
あるお二人から、「血が通ったサイト」と同じ感想を受け、私はそれがとても嬉しかった。
血が通ったものは、問題を抱えるけれども、アップデートされていく可能性がある。情報が都合によって組み替えられたりせず、咀嚼され、取り込み、その変化を許容すること。それが大事だと思ったし、おそらく大事だ。
minä perhonen HP


装苑 2011年10月号
こちらも、minä perhonen。
皆川明さんの連載対談「ことばのポートレイト」vol.4は、二階堂和美さん。
対談の現場を体感するように読むこと、写真とテキストがデザインの都合によって、レイアウトされないこと。150P超の雑誌中の2Pにおける、読む風景の実践。


mama!milk@ヴァンジ彫刻庭園美術館
mama!milkがヴァンジ彫刻庭園美術館のキャンドルナイトの中、ライブを開催、チラシを担当しました。イラストは、秋山花さん。イベントは終了してしまいましたが、もしチラシをどこかで手にされる機会があれば、陽の光りにぼんやり透かしてみてください。


落田洋子展@Gallery SU
道具、絵画、ジャンルを問わず、近現代の魅力的な作家を紹介している西麻布のGallery SU。今回は、落田洋子さんの80〜90年代に制作された貴重な銅版画の展示です。DMとリーフレットを制作。
物語には、いつでも猫がいるみたいです。


シアターカンパニーARICAプレゼンツ「LOVE GAME LOVE」公演@森下スタジオ
2月に新作公演に向けたトライアル「LOVE GAME LOVE」。チラシには、演出家の藤田康城のコレクションより。子供の描いた魔法使いのような少女(何故か老婆にも見える)が、表情もなく佇んでいて、どこか不穏だ。
少女は、魔法使いで、しかも老婆。これは非常にARICA的と言える。
公演情報はこちら


10月には、一年振りにエクリの新刊が出ます。詳細はまたおって。
秋以降は、いっぱい本が出ますので、お楽しみに。



夏が終わりに近づくと、毎年『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』、と村上春樹初期三部作を読み直す。そして夏を終えると、私は誕生日を迎えるのだが、いつのまにか『1973年のピンボール』の「僕」と『羊をめぐる冒険』の「僕」の間の年齢になったことに気づいた。

現実的にいうと、『1973年のピンボール』で「僕」が、友人と翻訳会社を始め、ピンボールに別れを告げ、「自由」という名の「システム」に足を踏み入れた状況くらいだろうか(同じくして「鼠」は街を出る)。
「僕」と「鼠」は、常に「私」であり「私」でなかったが、私たちは、おそらくは「鼠」のように生きられない(だから、そうあったかもしれない「僕・私」としての「鼠」が存在するのだが)。
不用意に言葉を発すれば、業界のサイクルから弾き出され、コミットメントの仕方を間違えれば、直ちに引退させられる。それが、私たちが暮し、働く世界だ。好む、好まざるにかかわらず。文句はいくらだって言えるけど。

『羊をめぐる冒険』で、「僕」はシステムの流れにうまく乗り出した翻訳会社をやめる。それは、システム(壁)をなかったことにする「旅」ではない。システム(壁)がいまここに存在すること、その事実がその加担者であることを担保していること、それを認め、それでも「精神の自由」を求める、個人(卵)の発生だった。

ひとまず、私はもう少しここで働くことにした。

2011年8月31日 来月事務所移転


「人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。どんなに月並みで平凡なことからでも必ず何かを学べる。どんなひげ剃りにも哲学はあるってね、どこかで読んだよ。実際、そうしなければ誰も生き残ってなんかいけないのさ。」『1973年のピンボール』








更新が三ヶ月振りである。書くことは特に溜まっていない。
備忘の為の覚え書きをしないが為に、新しい記憶も忘れられていく。



群馬県立近代美術館で行わている「司修のえものがたり」展、広報物、カタログのデザインを担当しました。
カタログには、落合恵子さん、角田光代さん、川上未映子さん、小池昌代さん、鴻池朋子さんらが執筆されています。また、表紙、扉はカメラマンの杉田知洋江さんに撮り下ろしていただきました。
展覧会は、6/19まで。詳細はこちら


『装苑』6月号、ミナペルホネンの皆川明さん連載対談「皆川明 ことばのポートレイト」、紙面のデザイン、担当しています。
vol.2は、TOGAの古田泰子さん。次回は8月号です。詳細はこちら


4/29から、松本のラボラトリオでクートラスの展示が始まりました。東京で4ヶ所、京都と巡回してきて、とうとうラストです。30日には、近代美術館の保坂健二朗さんと神話研究者の石倉敏明さんのトークもありました。工芸の五月に併せて、どうぞ。


5月末に京都のARTZONEで行われる「空間の境界をめぐる6つの対話」と題されたトークイベントのチラシを制作しました。
お声掛けいただいたのは、いつもの通り、建築家の藤原徹平さん。ワタリウムでのトークとはまた少し趣が変わり、建築史家の倉方俊輔さんや書家の華雪さん、CONTACT GONZOの塚原悠也さんなど、対話がテーマをいくらでも越境しそうな12名です。



3、4月と跨いで、一ヶ月ほど欧州に滞在していたけど、それも既にずいぶんと昔のことになってしまった。
クートラスの本のために、パリの書店を回ったり、ベルリンでは、知人のアーティストのアトリエに滞在し、彼女のアーティストブックの為の作業に従事していた。震災直後の出発だったこともあり、東京での仕事をそのままパリに持っていく羽目になったが、それでもベルンやチューリヒ、ロンドンにも赴き、その間、西洋の近代絵画をぼんやり眺めていた。
私は、人とかコップとかが描けないのだが、モノを見ることに少しだけ興味が出てきた。以前、ジャコメッティと写真家のアンダース・エドストロームについて書いたように、(特に私にとって)セザンヌやマティスが、「その時」彼らが「そう見ている」ように、「今」私が「見ていた」という、その「物語的」な時間の追体験に感動する。
そういう意味で、絵画が実際に残っている、というのはとても有効だし、この場合の技術は「テキスト」と「本」の関係と同じである。(ベンヤミンのいう「原作」と「翻訳」でもいい)
量と質、時間と距離、音質と音量、文体と声の大きさ。そんな幾度となく語られてきた問題が、今になって私に近接していると感じた。どうしよう。
(あとは、ドガがあんなに変人だとは知らなかったな。アイロンをかける女の絵はあまりに可笑しい。)

「経験は、というよりも、ある経験は、すぐれた芸術作品よりも美しい。同時にその経験は、そのままうつしていると信じている人の手によってうつしかえられて他人の眼にふれる形であたえられても、美しいとはかぎらない。」
「そこは、かこむものとかこまれるものの境界のはっきりしないところで、さわられるものとさわるものとの区切り目もはっきりしないひとつの橋であって、その橋をひとつ以上の存在がたがいにゆききできる。
記号の誕生は、ここにあったと言ってよいだろう。そういう記号のはじまりは、記号以前ときびすを接している。記号はどこからが記号か。」
(鶴見俊輔『神話的時間』)


※パリのジュンク堂、「bookstorming」「L'Ecume des Pages」という書店に、クートラス作品集『Mes Nuits 僕の夜』が置かれることになりました。








1月から随分とゆったり過ごしていたけれど、
渡欧まで一ヶ月をきって、にわかにバタバタ、ソワソワしてきてます。



今週末、2/17、18に、
ARICA第20回公演「蝶の夢/Butterfly Dream」(TPAMショーケース参加作品)の上演があります。会場は横浜、BankART NYK Hall 1F。
孤高のアクショニスト、首くくり栲象との奇跡の共演。
是非、ご高覧下さいませ。

詳細はこちら
ARICA HP



最近は、映画ばかり観ていました。
イメージフォーラムで、フェリーニ、
アテネ・フランセで、アモス・ギタイ、
新宿ケイズシネマで、ルイ・マル、
阿佐ヶ谷ラピュタで、徳川夢声特集、
ユーロスペースで、北欧アニメーション、
あとは、家でジョン・フォードやら、ベルイマンやら。
また、今年のプロジェクトのために、タルコフスキー関連の書籍を読む。

「イメージというのはそれ自体で完結しているべきもので、解釈は不可能なはずだ。イメージとは、象徴とは違い、閉じた体系のなかで存在することができない。イメージはそのたびごとに別の形で知覚される。もし、イメージをなんらかの概念的な(イデオロギー的な)枠のなかに閉じ込めようとすれば、イメージは生命力を保つことはできないし、その中に閉じこもり、死んでしまう。なにかを読み直したり、見たりするたびに、私はそれが別の印象をもたらすということに気づく。」(『WAVE #26 タルコフスキー特集』)



昨年、写真家のアンダース・エドストロームと一緒に仕事をして、改めて、彼の写真に大変感動したのですが、それはそれらの写真が「見たまま」だったからです。
今わたしが、それを「見ている」ように、彼がその時そうして「見ていた」、と分かる。(あるいは、いつか誰かがそう「見る」ように、彼はその時そう「見ていた」)
撮られた時間(「今ここ」からしたら、常に過去)を超えて、そこにいることができる。
そういった、物語的な強度と自由度を持った写真に、とても感動したのである。

「見えるものを見えるとおりに表すとは、存在をあるがままに表すということではない。それは現実の代りに象徴的なイメージを置くことではなく、また現実についての観念的、詩的把握を可視的に表徴することでもない。見えるものを見えるとおりに描くとは、事物の存在ではなく、その出現と消失とを決して現実の一様相としてではなく、現実をあらしめる全体として捉えること、見えるものがどのような仕組みで見えるようになるかを、つまり見えるものの現実の空間を開示することである。」(宇佐見英治『見る人―ジャコメッティと矢内原』みすず書房)

例えば、いつかその人(「大衆でなく、疎外された個人でもない」人)が「読んでいる」ように、今、デザインすること。
はたして、デザインに(私に)そのような曲芸が可能だろうか。








あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。

年末年始は、広尾の中央図書館に入り浸り、『本と人の歴史事典』を通読。
(八雲図書館にもあったけど、あまりに重いので、借覧断念)
あとは、掃除、読書、映画、お昼寝、実家にておせち。
イメージフォーラムにて、ベルトリッチ「暗殺の森」。館内は満員(僕の前には、巨漢がいて、常に字幕の左端が見えなかった)。全ての場面を美しいと思うので、肩がバリバリになってしまうが、それも虚構だろうか。
リンゼイ・アンダーソンの「if もしも....」は面白かったなぁ。最後の殺戮場面が、黒沢清の傑作「神田川淫乱戦争」のラストに似て、爆発的に笑ってしまった。



クートラス展@恵文社ギャラリーアンフェール、設営のため、京都へ。
テキパキとしたスタッフさん達に助けていただき、素敵な展示になりました。
関西地区の方々、京都へ行かれる方は、是非。

ロベール・クートラス展「Mes Nuits」
恵文社一乗寺店ギャラリーアンフェール
2011年1月11日(火)~1月24日(月)
10:00~20:00(最終日は18:00まで)
詳細はこちら

恵文社では、いつもの如く隅々に散らばっている古本が目に留まってしまう。
「かがくのとも」の『しまふくろう』『にほんかもしか』、「科学のアルバム」『雪の一生』、「カラーブックスシリーズ」『宝石』など購入。ほか、三月書房などでも散財。
また、大山崎山荘美術館、ギャラリー16で日高理恵子さんの展示を見る。
大山崎山荘美術館は、映像作家さわひらきさんとの展覧会で、ギャラリー16は、日高さんの制作にとって、極めて重要な、学生時代からの現在までのドローイングの展示となっています。
「私にとって絵を描くことは"見ること"」とおっしゃるように、"描く"ために"見る"のではなく、二つがまったくの同義であろうとしながら、その超えられない一線で揺らいでいる。その揺らぎ自体が、日高理恵子という画家の変遷であろう。
併せて、是非ご覧下さい。

大山崎山荘美術館(~3/13)
ギャラリー16(1/11~2/4)



Coutelas Journal』(完売)に寄稿してくださった、文筆家の岡敦さんの著作が刊行されました。日経ビジネスオンラインでの連載をまとめたもので、「古典」をたった一枚のパンのように読み、咀嚼し血と肉なり、その身体から紡ぎだされた、他にかえがたい言葉たち。
是非!

強く生きるために読む古典』岡敦/集英社新書



音楽家の阿部海太郎さんのHPが1/1にオープンし、そのお手伝いをしました。
プログラミングは、gm projectsの石黒宇宙さんです。チェルフィチュの新作「ゾウガメのソニックライフ」の特設サイトも石黒さんの制作ですが、凄くいいです。
批評以前の熱というか、こういった無料のクリエイションが伝播し、「未だ見ぬ観客」に贈られ、そこで初めて価値が生成されるのだろう。

阿部海太郎HP
チェルフィッチュ「ゾウガメのシニックライフ」特設サイト





This site developed by monobook
© suyama design