ジャコメッティとアンダース・エドストローム



1月から随分とゆったり過ごしていたけれど、
渡欧まで一ヶ月をきって、にわかにバタバタ、ソワソワしてきてます。



今週末、2/17、18に、
ARICA第20回公演「蝶の夢/Butterfly Dream」(TPAMショーケース参加作品)の上演があります。会場は横浜、BankART NYK Hall 1F。
孤高のアクショニスト、首くくり栲象との奇跡の共演。
是非、ご高覧下さいませ。

詳細はこちら
ARICA HP



最近は、映画ばかり観ていました。
イメージフォーラムで、フェリーニ、
アテネ・フランセで、アモス・ギタイ、
新宿ケイズシネマで、ルイ・マル、
阿佐ヶ谷ラピュタで、徳川夢声特集、
ユーロスペースで、北欧アニメーション、
あとは、家でジョン・フォードやら、ベルイマンやら。
また、今年のプロジェクトのために、タルコフスキー関連の書籍を読む。

「イメージというのはそれ自体で完結しているべきもので、解釈は不可能なはずだ。イメージとは、象徴とは違い、閉じた体系のなかで存在することができない。イメージはそのたびごとに別の形で知覚される。もし、イメージをなんらかの概念的な(イデオロギー的な)枠のなかに閉じ込めようとすれば、イメージは生命力を保つことはできないし、その中に閉じこもり、死んでしまう。なにかを読み直したり、見たりするたびに、私はそれが別の印象をもたらすということに気づく。」(『WAVE #26 タルコフスキー特集』)



昨年、写真家のアンダース・エドストロームと一緒に仕事をして、改めて、彼の写真に大変感動したのですが、それはそれらの写真が「見たまま」だったからです。
今わたしが、それを「見ている」ように、彼がその時そうして「見ていた」、と分かる。(あるいは、いつか誰かがそう「見る」ように、彼はその時そう「見ていた」)
撮られた時間(「今ここ」からしたら、常に過去)を超えて、そこにいることができる。
そういった、物語的な強度と自由度を持った写真に、とても感動したのである。

「見えるものを見えるとおりに表すとは、存在をあるがままに表すということではない。それは現実の代りに象徴的なイメージを置くことではなく、また現実についての観念的、詩的把握を可視的に表徴することでもない。見えるものを見えるとおりに描くとは、事物の存在ではなく、その出現と消失とを決して現実の一様相としてではなく、現実をあらしめる全体として捉えること、見えるものがどのような仕組みで見えるようになるかを、つまり見えるものの現実の空間を開示することである。」(宇佐見英治『見る人―ジャコメッティと矢内原』みすず書房)

例えば、いつかその人(「大衆でなく、疎外された個人でもない」人)が「読んでいる」ように、今、デザインすること。
はたして、デザインに(私に)そのような曲芸が可能だろうか。



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