2012年 Archive






音楽家の蓮沼執太さんがアサヒ・アートスクエアを拠点に、一年間(2012年2月〜2013年2月)毎月公開でスタディ(レコーディングや撮影)をして、そこから派生する展覧会を行うプロジェクト「蓮沼執太のスタディーズ」。私はそのロゴタイプと、毎月行われる公開スタディのチラシを担当します(もうやってますけど)。

 蓮沼執太という音楽家は、個々のプロジェクトの中で、自分に媒介にして、実験を楽しむかのように、多様な環境と人脈の中で、多様なアウトプットを行ってきた(と思う)。今回のプロジェクトも、レコードのための公開録音でもないし、ただのライブでもない。よく分からない。だから、スタディーを通して最終的に行われる展覧会には、できるだけ様々な(普段蓮沼さんのライブを見たことがない人も、アサヒアートスクエアに行ったことがない人も)お客さんを呼びたいと(そうなることが今回の「告知」の成功だと)思った。しかし予算はない(大体いつもない)。ただ「時間」はある(なら映画を観たい)。一年間通してプロジェクトを進めるのだし、その「時間」を使って広報することができないものだろうか。
 そもそも、私はここ最近チラシなどを大量に刷って、不特定多数に撒いたりする(公演折り込みをしたり、美術館や公共施設に設置したりする)ことに、どれほど効果があるのか懐疑的だった(時々たくさん余ったりするし)。もちろん、偶然チラシを手に取って展覧会やイベントに赴く方もいらっしゃるでしょう。だとしたら、そのチラシを「偶然」手にとる「行為」そのものを作れないだろうか。

 今回のプロジェクトは、予め一年間のスケジュールが決まっていたので、翌月の公開スタディの日時と蓮沼さんの短いテキストを記載したチラシを100枚ほど束ね、日めくりカレンダーのようにして(全て同じ日付の日めくりカレンダー)、それを毎月都内数カ所に設置することにした。チラシを「撒く」のではなく、チラシを「取りに来て(捲って)もらう」。
 場所と枚数を限っているので、即効性(チラシを製作した翌月の公開スタディに女の子が大挙して押し寄せたりとか楽しそうなこと)はないかもしれないが、わざわざ取りにいったり、自分で捲るという「行為」が介在することは、記憶の手助けになるだろうし(私なんかは展覧会の日時を忘れてよく見逃す)、持続性があると思う。何より、あとは一年間という「時間」がプロジェクトを導いてくれるだろう。

 ごく小さな音量でラジオが鳴っている。よくは聴こえないが、心惹かれる音だ。音の方へ歩くと、少しずつ音がクリアになっていく。私たちはそこまで歩いていくだろう。そこには、あなた(だけ)を待っているニュースがある。「良いニュースは小さいな声で語られる」(村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』)のだ。
 声を届けるのに、その音量を大きくすることはない。友人に手紙を書く時に紙やペンを選ぶように、その響き方、そしてどこで声を発するかに腐心すること。でなければ、空(くう)に浮かんだ音は「誰かの」メッセージにはならないと私は思う。そこに宛名がなくとも「これはあなたに宛てたメッセージだ」というメタメッセージが感じられたとき(そう複数の人が感じるわけだが)、それは初めてメッセージ足り得る。

 今後の日めくりチラシには、蓮沼さんだけでなく、様々な方のエッセイやイラストなども掲載予定で、そこにしかないフリーペーパーを取りにいくような感覚で、楽しんでもらえるようなコンテンツが待っております。どうぞお見知り置きください。


設置場所は、以下の都内五ヶ所です。(これから設置される場所もあり)

NADiff apart
UTRECHT NOW IDeA
VACANT
happa(青山|目黒)
アサヒ・アートスクエア


蓮沼執太のスタディーズ
※蓮沼さんのHP内の「self」でも毎月のスタディーがレポートされています。こちらも是非。









物語を書いたり、絵を描いたり、写真を撮ったりしない私も、少しは読んだり、見たりするのだが、それはいつも遅れた行為となる。最初の読者・鑑賞者(他者)は、語り手であり、画家であり、写真家であるのだから。
しかし、遅れてきた私も、時折それが書かれた(描かれた)場所で、彼らがそう書いたように(描いたように)、読み、見ることができる(私が読むように、見るように、彼らは書き、描いている)。たったいま紙に書き付けられた文字を書き手が読んだとき、画家や写真家が現前した光景と再び対峙したとき、おそらく彼らがそうだったように。
そうして読者や鑑賞者が神話的時間に沈み込み、「最初の読者、鑑賞者」の眼を獲得するためにデザインが唯一出来ることは(あるいは、失敗するかもしれないが)、その可能性を消さないことである。
文字が小さい。紙がガサガサする。この本は重い。頁を捲ったら、意外に軽やかだ。そうして、始原の遅れを抱えた私は、さっさと読み終わり、じっくり読み干し、一枚の前で佇み、立ち去り、何冊かの本、何枚かの絵、写真の「最初の読者、鑑賞者」になった。

「私にはすべてが別物に、全く新しく見えた。そこでもっと先まで見たいという好奇心に駆られた。それは、こういってよければ、どんなものに対しても起こる一種の間断のない驚きだった。もちろん、私は絵に描いてみたくて仕方がなかったが、これは私の手には負えなかった、...これまでのところ、私はどんな方法を使っても失敗してきた」(ジャコメッティ『私の現実』みすず書房、1976年)

(『typographics ti:』#266「TYPE RELAY」寄稿)








花のズボラ飯』(作:久住昌之・画:水沢悦子、秋田書店刊)を読んだ。
(味覚の)「快」に関する潜在認知(無意識下の判断)と情動そのものを画によって描き、吹き出しがその結果(意識に昇った「快」)を補足している。
脳の動きが画面から溢れ、吹き出しまで占領していった『鈴木先生』の試みを思い出した。

しかし『花の~』には所謂ストーリーがない。おそらく吹き出しを全て塗りつぶしても、目紛るしく移り変わる風景として読める筈である(何があったのか詳しく聞かなくとも、「ギャッ」という叫び声とその表情から私たちは彼らの痛みを認知できる)。
沈黙劇のト書きに「......」とあるように(知らないけど)、演者はそれを言わずに存在する。

ところで『花の~』は、毎日の食生活を扱っているわりに現実感が乏しい。例えば、幽霊にも「快」は存在するだろうか。私は存在すると思う。ただし、そこにはストーリーがない(もう、あるいはずっといないから)。

現実には存在しないが、別の方法でそこにいる。それを「物語」と呼びたい。

花のズボラ飯』(作:久住昌之・画:水沢悦子、秋田書店刊)
参考文献:『サブリミナル・インパクト―情動と潜在認知の現代』(下條信輔、ちくま新書)









あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い致します。
皆さまにとって、2012年が豊かな年でありますように。

HPの更新が一年近く滞り、自分でも2011年は何をしてきたかいまいち分からなかったので、久々にここ最近の仕事をカメラマンの片村文人さんに撮っていただき、アップしてみましたが、ヒイヒイ言っていたわりに、その数の少ないこと!
反省すべきことです。まあ僕がどうこうできることでもないんですけど。

身の回りの環境としては、昨年末に事務所移転をし、テキスタイルデザイナー・コーディネーターの安東陽子さんと、新しく千駄ヶ谷に事務所を共有することになりました。
いつまで続けられるか分かりませんが、ひとまず今のところは、安東さんのご友人であり、家具デザイナーの藤森泰司さんに作っていただいた机と棚が並び、照明デザイナーの岡安泉さんの光の下で、心地よく仕事をしています。何より、通い、帰宅することを楽しんでいます。

ここ数年の目標としては、今後デザイナーを続けるにせよ、新規一転蕎麦屋を目指すにせよ、それに耐え得る足腰と基礎体力を、「見ること」「読むこと」によって鍛えていくことです。もう少しだけ自分に厳しく。

new office:
151-0051
渋谷区千駄ヶ谷3-55-12 ヴィラ・パルテノン5C
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※今年は喪中のため、年賀状は控えさせていただきました。喪中葉書が届かず、年賀状を頂いてしまった方々、ごめんなさい。
不在を在りようを初めて体感し、不在への接し方(敬意)、それはつまり未来の(自己を含めた)他者への祝福なのだ、ということを感じた2011年の年末でした。





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