2013年 archive


    拘束されているが故に、そこから移動出来ずに有限の自由を感じる。私にとって、電車に乗っている時間はそういうもので、すべきことがない嬉しさを噛み締めつつ、大体を周辺にいる女性を見るでもなく(外の景色をそうするように)眺めるが、時折は学びの姿勢を見せ、読書に費やすこともある。が、これが危険なのだ。一度読書を始めると、今まで視界に入ってこなかったものことたちが、光線となり私の可読範囲内に侵入してくる。隣に座るギャルの持つスマートフォンから漏れる映像、前に立つ中年男性の靴、コートの裾、カサカサ音を立てる新聞、対向の椅子に座る謎の女の視線----。
     私たちは普段(歩いている時、物思いに耽っている時)、何を見ているのだろうか。いや、そもそも何かを「見ている」のだろうか。当然、何も見ずに歩くことは出来ないはずで、前を歩く人、階段の段差が眼に入ってくるので、ぶつからず、転ばず、対して考えもせず目的地へ向かう(ことができる)。眼は勝手に光景のスキャニングを行い、「考えること」(只今人が迫ってきています、避けます。段差を見つけました、右足の後に左足を下ろします。といった具合)を経由せずに、私たちの身体は動くことが出来る(向かう道筋を知っている場合、「記憶」という「視線」も手助けをしてくれる)。
     つまり、眼がスキャンした光景と認識は直結していない。「見ている」と「見た」(と思う)の間は遠い。眼は常に何も見ていないか、一つのものを(意識的に)見る。あるいはずっと見ているが、(認識的には)見ていないことにしている。
     私は本を開き、紙を、文字を眼で追う。これを「見ている」とする。しかし、途端に眼は様々なものを認識し始める。今まで眼に入りながら「見た」ことにはしていなかったものことが蠢き始め、それが私の自由を奪う。つまり、他の光景に侵入されると私の「眼」は本を読むことができなくなる(見ることができなくなる)。
     では、「見ようするもの」「見えてくるもの」、その二つのものを同時に「見る」ことができるとして、その時人は何を思うか。「私(だけ)が見た」だ。


     大原大次郎の「もじゅうりょくのモビール」シリーズの「文字」を見た時に私が感じたのは、この「私(だけ)が見た」感覚だった。「もじゅうりょく」とは、「文字」と「重力」を掛け合わせた造語で、「文字」のエレメントを解体し、物質として作られたそれらが、空間に再構成される。平面ではなく、宙に浮かべられた「文字の欠片」は、実にゆっくりと回り、簡単には「文字」にはならない。「私」(鑑賞者)は、しばらくその前に佇み、ある時それらが、「文字」に見える「時」に遭遇する。そうすると、不思議なことに、それまでただのバラバラだった「モビール」は、そのあとどれだけ動き、形体が実際の字体から遠く離れていっても、もう「文字」にしか見えなくなる。(実際には、いくつかの「文字」が組み合わされ、単語が構成されている。例えば、「あるいは」「食卓」など。この「単語」ということも、認識には大事な要素だと思われる。「語」と「語」を繋ぐ脳の回路、つまりここでも「記憶」が関わっている。)
     おそらく、「もじゅうりょく」を「文字」として認識するまで(の時間)には、立つ場所、動くモビールを追う眼の方向といった環境の差異だけでなく、個体差がある。元々個々人の中(頭、脳、それが何かは分からないが)に内在している「文字」(予感)があり、そこに「もじゅうりょくのモビール」によって生まれた時間がアクションを起こすことによって、改めて「文字」に気付か(発見)される。その構造が「私だけが見た」感覚に関係しているはずである。


     以前読んだ免疫学の本にこんなことが書いてあった。「まず『自己』に対しては反応しないように認識の構造を設定し、それをそのまま利用して、『自己』が『非自己』化したことを認識させる」(多田富雄『免疫の意味論』青土社刊)。つまり、「A=×B」だと判断させるのではなく、「A=B」を判断させないようにすることで、「A×=B」になった瞬間が発生する。「もじゅうりょく」に内在する「文字」とそれに呼応する気付きは、この免疫論と同じ構造(というより全く逆)が張り巡らされている。既に知っている「文字」(A)を、「B」として、改めて知る。そのために一度「B」が「A=×B」となる状況を作り出し、もう一度「A=B」との(かつてあった)出会いをもう一度新鮮な「発見」として提出する。それが「もじゅうりょく」の再構成の仕組みではないだろうか。


     しかし、どうして私たちは、「まだ文字ではない」「もじゅうりょくのモビール」の前で、「それ」が「文字」になる間での時間を過ごすことができるのだろうか。それは、私たちが「それ」がいつか「文字」になることを「予め知っている」からだ。私たちは「もじゅうりょくのモビール」の前で「それ」が「何であるか自分に説明する自由」を持てない(ようになっている)。しかし、「それ」が「時間」を経て、「文字」になることを「知っている」が故に、その時間に耐えられる。
     先ほどから、何度か「記憶」という曖昧な言葉で表してきたが、「いまここ(現在)」は、私たちが「今見ているもの(こと)」とは、別に「かつて見たことがあるもの(こと)」によって担保されている。「それ」が未だ「何を表しているかは分からない」が、「その存在自体」を「かつて知っている」が故に、私は今ここにいることに耐えられる。「これはまだ文字ではない」が「これが(かつて)文字である(であった)こと」は分かる。それこそが、大原大次郎が「もじゅうりょくのモビール」に二重に巡らせた「新しい文字の読み方」だ。いや、そこに読み取ろうとする(発見への)意志があり、それより先んじて意志を発動させる(予感への)萌芽がある限り、それは「文字」ではなく、意味を持つ「言葉」なのだ。


     私たちは、「理由を知っていて」ここにいるわけではない。(そのような自由は与えられない)。それでも、ここに居続けなければならない。そうして生きている。
     きっかけも理由もない不安の中で、「いまここ(現在)」に居続け、「かつての光景(過去)」と「これからの光景(未来)」の間で耳を澄ます。
     その時に聞こえた声こそが、大原大次郎が発した「見たことのある文字」を使った、「聞いたことのない言葉」だ。


    (2013.07.01)


     私はデザイナーで、ARICAではチラシなどの宣伝美術を担当しており、普段は、本や雑誌や、美術館の広報物だとか、ファッションブランドのグラフィックなどをデザインし、生計を立てている。
     例えば、本(一人の著者)と読者(不特定多数)の間で「私」は仕事をする。


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     今年急逝したテオ・アンゲロプロスの追悼上映が各地で行われている。
     今まであまり熱心に観たことはなかったが、5、6月は暇だったので、新文芸坐、早稲田松竹、東京芸術センターで観た。
     

     AとBの会話を撮る際に、Aの目線でBを、Bの目線でAを、C(「そこ」にはいない第三者=撮影者)の目線でAとBを、通常であれば、そうした三つのショットで行われるところを、Cの視点だけで二人を捉えてみる。そして、そのままカメラは360度パンする。そうすると、そこには誰も(「そこ」にはいない第三者=撮影者は当然)いなかったことが分かる。具体的にこんな場面があったかどうかは知らないが、『旅芸人の記録』の一場面でひどく長いワン・ショットがあって、そこでは何度もカメラが廻り、移動し、その都度登場人物たちも忙しなく動き、「こちら」(カメラ側=私たちの方)に向き直す(このワン・ショット=ワン・シークェンスのカメラと人の動きについては、『アンゲロプロス 沈黙のパルチザン』(ヴァルター・ルグレ/奥村賢訳/フィルムアート社、に詳しい)。
     私たち(鑑賞者)は登場人物(AやB)の目線を与えられず、撮影者は「そこ」では不在の(いるけれど、いない)目線となる。同時に登場人物にも「こちら」を「観る」機会は与えられず、「そこ」にいない視線に観られ続けている。
     
     また、Dが道路に面した薬局の中に入る、カメラはその背中を追う。ショットが切り替わり、カメラは店の中から外の通りを写す。鑑賞者は店の中にいるDの視線に同化し、通りを眺める。すると、カメラにはその通りに店から出て来たDが映り込んでくる(これは、実際に『永遠と一日』にあったショット)。私(鑑賞者)は違和感を感じることなく、いつのまにか「そこ」から投げ出されている。
     

     アンゲロプロスはカメラの視線に「主体」を与えない。
     故に「私」は「そこ」にいることができない。
     

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     久住昌之原作の『孤独のグルメ』(画:谷口ジロー/扶桑社)と『花のズボラ飯』(画:水沢悦子/秋田書店)は、登場人物が一人だ。
     性格や風景を成り立たせるために、画面内に人がいたり、会話が成立している場合もあるが、物語にはあまり関係がない。そもそもこの二つの漫画に特別に際立ったストーリーはない。ただ食事をし、「美味い」と思ったり、実際にそう口に出したりするだけだ。
     

    『孤独のグルメ』は、アンティークの家具や雑貨を輸入する会社を切り盛りしている中年男性井之頭五郎が、卸先などの出先で食事を摂る、一話完結型の漫画。彼は(聞き直されたりしないように)大きな声で注文する。注文を二回言うのはストレスだから。また、食事の際はいつも一人のため、「美味い」と口に出すことを許されていない(別に「美味い」と言ってもいいが、周りの客に怪訝な顔をされたり、店のおばちゃんに喜ばれたりするのでこれもまた面倒くさい)。
     もちろん漫画なので、吹き出しで「うまい」と書かれる(図1参照)。これは頭の中で思った「うまい」で、口に出して「うまい」と言ったわけではない(と思う。今年ドラマ化された際には、「うまい」はオフの声で対応されていた)。しかし、彼の顔は声に出さずとも、傍から見て美味いのが分かるほど、美味そうな顔をする。誰も観ていないのに。私たちは、井之頭五郎に共感する。
     

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    図1


    『花のズボラ飯』では、夫が単身赴任のため一人暮らしをしている30歳の女性駒沢花が登場人物だ。元々の性格か夫が不在なことによる気の緩みか、彼女は片付けができない、ソファーで寝転がる、「ズボラ飯」を作る。そして、それはそれは美味そうに食べる。そして、実際に「うっまぁ〜〜い!」と声に出す(図2参照)。彼女は自宅で食事をしているから、独り言つことを許されている。誰も聞いていないのに。私たちは、駒沢花の独り言を聞く。


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    図2


     例えば、道で転び、痛そうな顔をして、咄嗟に「うわ!」なり「痛っ!」といった声を上げる。偶然居合わせた人に「今、道で転んだんです。とても痛かったです」と言わなくても、その「痛い」感覚や気まずさは充分伝わっている。
     彼等が、「美味い」という表情をしたり、「うっまぁ〜〜い!」と思わず独り言つことで、彼等にとって、私たちは、そこにいない「人」になる(彼等は「独り」だからが故にそうする。そうするために「独り」にさせられている)。そして、私たちは「そこ」にいない故に、共感をし、会話の相手となる。
     

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     私が興味があるのは、映画や漫画における「そこ」だとか、彼等(登場人物)の持つ視線の方向性ではなくて、彼等(登場人物)のいる「そこ」と、「私」(撮影者や漫画家や鑑賞者)のいる「ここ」の間に存在する運動のことで、それは例えばキャッチボールが行われている様を、そのキャッチボールを行っている二人を見ないで、その軌道だけを見ている状態とその距離感のことだ。「そこ」にだれもいないこと(不在がいること)によって生まれる視線と、不特定多数に対するコミュニケーションが成り立つことは同じではないか。
     

    「...なぜ私といるの?」
    「俺には理由なんてない。あるのはただ、この名前と、ゴミ集めの制服、虫歯に病気の肝臓、慢性胃炎...いちいち理由をつけるぜいたくなんて、俺にはない」
    (『パラダイスの夕暮れ』より)


    (Theater Cpmpany ARICA「HP Column」より)