Yuri Suyama

1-43-12
Tomigaya, Shibuya-ku
Tokyo 151-0063, Japan
info@suyama-d.com


 私はデザイナーで、ARICAではチラシなどの宣伝美術を担当しており、普段は、本や雑誌や、美術館の広報物だとか、ファッションブランドのグラフィックなどをデザインし、生計を立てている。
 例えば、本(一人の著者)と読者(不特定多数)の間で「私」は仕事をする。


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 今年急逝したテオ・アンゲロプロスの追悼上映が各地で行われている。
 今まであまり熱心に観たことはなかったが、5、6月は暇だったので、新文芸坐、早稲田松竹、東京芸術センターで観た。
 

 AとBの会話を撮る際に、Aの目線でBを、Bの目線でAを、C(「そこ」にはいない第三者=撮影者)の目線でAとBを、通常であれば、そうした三つのショットで行われるところを、Cの視点だけで二人を捉えてみる。そして、そのままカメラは360度パンする。そうすると、そこには誰も(「そこ」にはいない第三者=撮影者は当然)いなかったことが分かる。具体的にこんな場面があったかどうかは知らないが、『旅芸人の記録』の一場面でひどく長いワン・ショットがあって、そこでは何度もカメラが廻り、移動し、その都度登場人物たちも忙しなく動き、「こちら」(カメラ側=私たちの方)に向き直す(このワン・ショット=ワン・シークェンスのカメラと人の動きについては、『アンゲロプロス 沈黙のパルチザン』(ヴァルター・ルグレ/奥村賢訳/フィルムアート社、に詳しい)。
 私たち(鑑賞者)は登場人物(AやB)の目線を与えられず、撮影者は「そこ」では不在の(いるけれど、いない)目線となる。同時に登場人物にも「こちら」を「観る」機会は与えられず、「そこ」にいない視線に観られ続けている。
 
 また、Dが道路に面した薬局の中に入る、カメラはその背中を追う。ショットが切り替わり、カメラは店の中から外の通りを写す。鑑賞者は店の中にいるDの視線に同化し、通りを眺める。すると、カメラにはその通りに店から出て来たDが映り込んでくる(これは、実際に『永遠と一日』にあったショット)。私(鑑賞者)は違和感を感じることなく、いつのまにか「そこ」から投げ出されている。
 

 アンゲロプロスはカメラの視線に「主体」を与えない。
 故に「私」は「そこ」にいることができない。
 

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 久住昌之原作の『孤独のグルメ』(画:谷口ジロー/扶桑社)と『花のズボラ飯』(画:水沢悦子/秋田書店)は、登場人物が一人だ。
 性格や風景を成り立たせるために、画面内に人がいたり、会話が成立している場合もあるが、物語にはあまり関係がない。そもそもこの二つの漫画に特別に際立ったストーリーはない。ただ食事をし、「美味い」と思ったり、実際にそう口に出したりするだけだ。
 

『孤独のグルメ』は、アンティークの家具や雑貨を輸入する会社を切り盛りしている中年男性井之頭五郎が、卸先などの出先で食事を摂る、一話完結型の漫画。彼は(聞き直されたりしないように)大きな声で注文する。注文を二回言うのはストレスだから。また、食事の際はいつも一人のため、「美味い」と口に出すことを許されていない(別に「美味い」と言ってもいいが、周りの客に怪訝な顔をされたり、店のおばちゃんに喜ばれたりするのでこれもまた面倒くさい)。
 もちろん漫画なので、吹き出しで「うまい」と書かれる(図1参照)。これは頭の中で思った「うまい」で、口に出して「うまい」と言ったわけではない(と思う。今年ドラマ化された際には、「うまい」はオフの声で対応されていた)。しかし、彼の顔は声に出さずとも、傍から見て美味いのが分かるほど、美味そうな顔をする。誰も観ていないのに。私たちは、井之頭五郎に共感する。
 

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図1


『花のズボラ飯』では、夫が単身赴任のため一人暮らしをしている30歳の女性駒沢花が登場人物だ。元々の性格か夫が不在なことによる気の緩みか、彼女は片付けができない、ソファーで寝転がる、「ズボラ飯」を作る。そして、それはそれは美味そうに食べる。そして、実際に「うっまぁ〜〜い!」と声に出す(図2参照)。彼女は自宅で食事をしているから、独り言つことを許されている。誰も聞いていないのに。私たちは、駒沢花の独り言を聞く。


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図2


 例えば、道で転び、痛そうな顔をして、咄嗟に「うわ!」なり「痛っ!」といった声を上げる。偶然居合わせた人に「今、道で転んだんです。とても痛かったです」と言わなくても、その「痛い」感覚や気まずさは充分伝わっている。
 彼等が、「美味い」という表情をしたり、「うっまぁ〜〜い!」と思わず独り言つことで、彼等にとって、私たちは、そこにいない「人」になる(彼等は「独り」だからが故にそうする。そうするために「独り」にさせられている)。そして、私たちは「そこ」にいない故に、共感をし、会話の相手となる。
 

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 私が興味があるのは、映画や漫画における「そこ」だとか、彼等(登場人物)の持つ視線の方向性ではなくて、彼等(登場人物)のいる「そこ」と、「私」(撮影者や漫画家や鑑賞者)のいる「ここ」の間に存在する運動のことで、それは例えばキャッチボールが行われている様を、そのキャッチボールを行っている二人を見ないで、その軌道だけを見ている状態とその距離感のことだ。「そこ」にだれもいないこと(不在がいること)によって生まれる視線と、不特定多数に対するコミュニケーションが成り立つことは同じではないか。
 

「...なぜ私といるの?」
「俺には理由なんてない。あるのはただ、この名前と、ゴミ集めの制服、虫歯に病気の肝臓、慢性胃炎...いちいち理由をつけるぜいたくなんて、俺にはない」
(『パラダイスの夕暮れ』より)


(Theater Cpmpany ARICA「HP Column」より)