風景の距離
須山悠里
一枚の絵を見る時、自分がどこに立てばいいのか、いつもよく分からない。
大きな美術館の展示室で、多くの人が覗き込む時、絵と鑑賞者の距離は近いのだろうか。
先日、ある物故作家の回顧展を見ている時、絵と自分との距離が2mほどの場所に立ち、摺り足で少しずつ絵との距離を広げていった。すると、あるラインを越えたあたりで、絵に変化が起こる。その絵がある風景を描いたものだということは分かっていたから、抽象画だと思ったわけではない。ただ、モチーフとモチーフの境界が揺らぎ、そこには名づけられない、しかし確かに画家が見たであろう、風景とは別の「何か」があった。
福津宣人のアトリエは狭い。いや、実際にはそれほど狭くはないのかもしれないが、部屋のいたるところに絵がかけられているので、どう視線を移動しても、目に絵が入り込んできて、狭く感じる。午前中には豊かな自然光の入る部屋に、他と比べて一際大きい絵がかかっている。彼は、自作の筆で画布を埋めていて、その絵は風景にも、抽象的な模様にも見えた。私は、距離を置いてその絵を見たいと思った。しかし、その部屋にもイーゼルや画材が散乱し、絵を一歩引いて見る、ということができない。しかし、福津宣人にはそんな必要はないのかもしれない。彼にとっての距離とは、風景を見る、画布を見る、その行為自体に内包されている。そうした眼を持つ人のことを、私たちは画家と呼ぶ。
画家は、動くものも、動かないものも、同じく一枚の絵にする。私は、花が風に揺れる様子を見ることはできるが、いくら近づいても花弁が朽ちていく姿を確認することができない。しかし、風による花の揺らぎも、経過による花弁の変容も、等しい時間の中にある。幾つもの風景が同じ時間の中で生きていることを、画家は絵にする。
naniの空間は、狭い。午前中は柔らかい光が差し込む。福津宣人のアトリエに似ているかもしれない。街路に面した窓からも絵を目にすることはできるが、部屋の中に入れば、絵との距離は2mほどになる。