ジャコメッティの素描

ジャコメッティの素描

物語を書いたり、絵を描いたり、写真を撮ったりしない私も、少しは読んだり、見たりするのだが、それはいつも遅れた行為となる。最初の読者・鑑賞者(他者)は、語り手であり、画家であり、写真家であるのだから。
しかし、遅れてきた私も、時折それが書かれた(描かれた)場所で、彼らがそう書いたように(描いたように)、読み、見ることができる(私が読むように、見るように、彼らは書き、描いている)。たったいま紙に書き付けられた文字を書き手が読んだとき、画家や写真家が現前した光景と再び対峙したとき、おそらく彼らがそうだったように。
そうして読者や鑑賞者が神話的時間に沈み込み、「最初の読者、鑑賞者」の眼を獲得するためにデザインが唯一出来ることは(あるいは、失敗するかもしれないが)、その可能性を消さないことである。
文字が小さい。紙がガサガサする。この本は重い。頁を捲ったら、意外に軽やかだ。そうして、始原の遅れを抱えた私は、さっさと読み終わり、じっくり読み干し、一枚の前で佇み、立ち去り、何冊かの本、何枚かの絵、写真の「最初の読者、鑑賞者」になった。

「私にはすべてが別物に、全く新しく見えた。そこでもっと先まで見たいという好奇心に駆られた。それは、こういってよければ、どんなものに対しても起こる一種の間断のない驚きだった。もちろん、私は絵に描いてみたくて仕方がなかったが、これは私の手には負えなかった、…これまでのところ、私はどんな方法を使っても失敗してきた」(ジャコメッティ『私の現実』みすず書房、1976年)

(『typographics ti:』#266 「TYPE RELAY」より)