「来たるべきグラフィックデザインのための図書室」
に寄せて

「来たるべきグラフィックデザインのための図書室」
に寄せて

「来たるべきグラフィックデザインのための図書室」
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 初めに読んだ保坂和志の小説は『小説の自由』で、これは小説ではなく、小説論なのかもしれないが、その後に遡って読んだ『カンバセイション・ピース』でも同じように、そこではずっと思考が漂い、止まることがない。ページの角を折り、アンダーラインを引いたところを読み返してみるが、すでに私はそこにおらず、全体の1/3ほどの角を折っているので、小口が盛り上がってしまっているだけだ。  どう「読ませるか」(見せるか)ではなく、どう「読んでいるか」(見ているか)。家への帰り道でふと木を見つめるような、その思考の中でしか語られないものがあり、それはそのまま日々「生きる」ことだと思う。  何かを読んだり、見たりしたとき、祖母を思い出す。2014年に亡くなった祖母が生き続けていると感じる。それは誰とも共有できない。誰とも共有できない思いのようなものが、私以外の誰かにも起こっている。そのとき、書く(描く)人と、読む(見る)人は、一緒にいる。 (『idea #382』「グラフィズム断章:もうひとつのデザイン史」より)

見たことのある文字と
聞いたことのない言葉
「予感」と「発見」

見たことのある文字と
聞いたことのない言葉
「予感」と「発見」

見たことのある文字と
聞いたことのない言葉
「予感」と「発見」

見たことのある文字と聞いたことのない言葉 「予感」と「発見」 拘束されているが故に、そこから移動出来ずに有限の自由を感じる。私にとって、電車に乗っている時間はそういうもので、すべきことがない嬉しさを噛み締めつつ、大体を周辺にいる女性を見るでもなく(外の景色をそうするように)眺めるが、時折は学びの姿勢を見せ、読書に費やすこともある。が、これが危険なのだ。一度読書を始めると、今まで視界に入ってこなかったものことたちが、光線となり私の可読範囲内に侵入してくる。隣に座るギャルの持つスマートフォンから漏れる映像、前に立つ中年男性の靴、コートの裾、カサカサ音を立てる新聞、対向の椅子に座る謎の女の視線—-。  私たちは普段(歩いている時、物思いに耽っている時)、何を見ているのだろうか。いや、そもそも何かを「見ている」のだろうか。当然、何も見ずに歩くことは出来ないはずで、前を歩く人、階段の段差が眼に入ってくるので、ぶつからず、転ばず、対して考えもせず目的地へ向かう(ことができる)。眼は勝手に光景のスキャニングを行い、「考えること」(只今人が迫ってきています、避けます。段差を見つけました、右足の後に左足を下ろします。といった具合)を経由せずに、私たちの身体は動くことが出来る(向かう道筋を知っている場合、「記憶」という「視線」も手助けをしてくれる)。  つまり、眼がスキャンした光景と認識は直結していない。「見ている」と「見た」(と思う)の間は遠い。眼は常に何も見ていないか、一つのものを(意識的に)見る。あるいはずっと見ているが、(認識的には)見ていないことにしている。  私は本を開き、紙を、文字を眼で追う。これを「見ている」とする。しかし、途端に眼は様々なものを認識し始める。今まで眼に入りながら「見た」ことにはしていなかったものことが蠢き始め、それが私の自由を奪う。つまり、他の光景に侵入されると私の「眼」は本を読むことができなくなる(見ることができなくなる)。  では、「見ようするもの」「見えてくるもの」、その二つのものを同時に「見る」ことができるとして、その時人は何を思うか。「私(だけ)が見た」だ。  大原大次郎の「もじゅうりょくのモビール」シリーズの「文字」を見た時に私が感じたのは、この「私(だけ)が見た」感覚だった。「もじゅうりょく」とは、「文字」と「重力」を掛け合わせた造語で、「文字」のエレメントを解体し、物質として作られたそれらが、空間に再構成される。平面ではなく、宙に浮かべられた「文字の欠片」は、実にゆっくりと回り、簡単には「文字」にはならない。「私」(鑑賞者)は、しばらくその前に佇み、ある時それらが、「文字」に見える「時」に遭遇する。そうすると、不思議なことに、それまでただのバラバラだった「モビール」は、そのあとどれだけ動き、形体が実際の字体から遠く離れていっても、もう「文字」にしか見えなくなる。(実際には、いくつかの「文字」が組み合わされ、単語が構成されている。例えば、「あるいは」「食卓」など。この「単語」ということも、認識には大事な要素だと思われる。「語」と「語」を繋ぐ脳の回路、つまりここでも「記憶」が関わっている。)  おそらく、「もじゅうりょく」を「文字」として認識するまで(の時間)には、立つ場所、動くモビールを追う眼の方向といった環境の差異だけでなく、個体差がある。元々個々人の中(頭、脳、それが何かは分からないが)に内在している「文字」(予感)があり、そこに「もじゅうりょくのモビール」によって生まれた時間がアクションを起こすことによって、改めて「文字」に気付か(発見)される。その構造が「私だけが見た」感覚に関係しているはずである。  以前読んだ免疫学の本にこんなことが書いてあった。「まず『自己』に対しては反応しないように認識の構造を設定し、それをそのまま利用して、『自己』が『非自己』化したことを認識させる」(多田富雄『免疫の意味論』青土社刊)。つまり、「A=×B」だと判断させるのではなく、「A=B」を判断させないようにすることで、「A×=B」になった瞬間が発生する。「もじゅうりょく」に内在する「文字」とそれに呼応する気付きは、この免疫論と同じ構造(というより全く逆)が張り巡らされている。既に知っている「文字」(A)を、「B」として、改めて知る。そのために一度「B」が「A=×B」となる状況を作り出し、もう一度「A=B」との(かつてあった)出会いをもう一度新鮮な「発見」として提出する。それが「もじゅうりょく」の再構成の仕組みではないだろうか。  しかし、どうして私たちは、「まだ文字ではない」「もじゅうりょくのモビール」の前で、「それ」が「文字」になる間での時間を過ごすことができるのだろうか。それは、私たちが「それ」がいつか「文字」になることを「予め知っている」からだ。私たちは「もじゅうりょくのモビール」の前で「それ」が「何であるか自分に説明する自由」を持てない(ようになっている)。しかし、「それ」が「時間」を経て、「文字」になることを「知っている」が故に、その時間に耐えられる。  先ほどから、何度か「記憶」という曖昧な言葉で表してきたが、「いまここ(現在)」は、私たちが「今見ているもの(こと)」とは、別に「かつて見たことがあるもの(こと)」によって担保されている。「それ」が未だ「何を表しているかは分からない」が、「その存在自体」を「かつて知っている」が故に、私は今ここにいることに耐えられる。「これはまだ文字ではない」が「これが(かつて)文字である(であった)こと」は分かる。それこそが、大原大次郎が「もじゅうりょくのモビール」に二重に巡らせた「新しい文字の読み方」だ。いや、そこに読み取ろうとする(発見への)意志があり、それより先んじて意志を発動させる(予感への)萌芽がある限り、それは「文字」ではなく、意味を持つ「言葉」なのだ。  私たちは、「理由を知っていて」ここにいるわけではない。(そのような自由は与えられない)。それでも、ここに居続けなければならない。そうして生きている。  きっかけも理由もない不安の中で、「いまここ(現在)」に居続け、「かつての光景(過去)」と「これからの光景(未来)」の間で耳を澄ます。  その時に聞こえた声こそが、大原大次郎が発した「見たことのある文字」を使った、「聞いたことのない言葉」だ。

ジャコメッティの素描

ジャコメッティの素描

ジャコメッティの素描

ジャコメッティの素描 物語を書いたり、絵を描いたり、写真を撮ったりしない私も、少しは読んだり、見たりするのだが、それはいつも遅れた行為となる。最初の読者・鑑賞者(他者)は、語り手であり、画家であり、写真家であるのだから。 しかし、遅れてきた私も、時折それが書かれた(描かれた)場所で、彼らがそう書いたように(描いたように)、読み、見ることができる(私が読むように、見るように、彼らは書き、描いている)。たったいま紙に書き付けられた文字を書き手が読んだとき、画家や写真家が現前した光景と再び対峙したとき、おそらく彼らがそうだったように。 そうして読者や鑑賞者が神話的時間に沈み込み、「最初の読者、鑑賞者」の眼を獲得するためにデザインが唯一出来ることは(あるいは、失敗するかもしれないが)、その可能性を消さないことである。 文字が小さい。紙がガサガサする。この本は重い。頁を捲ったら、意外に軽やかだ。そうして、始原の遅れを抱えた私は、さっさと読み終わり、じっくり読み干し、一枚の前で佇み、立ち去り、何冊かの本、何枚かの絵、写真の「最初の読者、鑑賞者」になった。 「私にはすべてが別物に、全く新しく見えた。そこでもっと先まで見たいという好奇心に駆られた。それは、こういってよければ、どんなものに対しても起こる一種の間断のない驚きだった。もちろん、私は絵に描いてみたくて仕方がなかったが、これは私の手には負えなかった、…これまでのところ、私はどんな方法を使っても失敗してきた」(ジャコメッティ『私の現実』みすず書房、1976年) (『typographics ti:』#266 「TYPE RELAY」より)